1975年、熊本県生まれ。法政大学卒。男子バレーボール及びビーチバレーボール日本代表として活躍。2012年に現役引退後、NPO活動や講演、メディア出演等を通じバレーボールの普及や青少年の育成に取り組む。早稲田大学大学院修了。熊本地震を契機に、だれもが輝ける社会を実現するため、参議院選挙への立候補を決意。2016年東京都選挙区より出馬、初当選。
妻、娘と息子の4人家族。子育てまっただ中のパパ。

●役職(2017/7/7現在)
参議院予算委員会委員
参議院国土交通委員会委員
自民党ネットメディア局次長
自民党青年局次長
自民党スポーツ立国調査会幹事
自民党教育再生実行本部事務局次長
2020年オリンピック・パラリンピック東京大会実施本部事務局次長

朝日健太郎プロフィール

2017

初の国会本会議 2017年(平成29年)

2017年1月20日、初めての通常国会(第193回国会)を迎える。
委員会は予算委員会と国土交通委員会に。3月7日には参議院予算委員会で初めての国会質問を行う。

2016

政治家を目指す 2016年 (平成28年)

2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が、日本の社会を大きく飛躍させるチャンスだと思い立候補を決意。
子育てをしながら安心して働ける社会、健康長寿社会、スポーツ成長産業化、障害者と共に暮らせる心のバリアフリーのある社会の実現を通して世界に誇れる日本の実現を目指す。

「故郷熊本が大地震で被災」2016年(平成28年)

2016年(平成28年)4月16日、熊本地震が発生。多くの犠牲と共に生まれ故郷が被災。熊本での復興支援や、母校鎮西の後輩達を激励に行くなど、一日でも早い復興を願う。

2014

「キャリア形成の一環で、教育や地域振興に関わる」2014年(平成26年)

2020東京大会の招致、開催決定の時期と、競技をリタイアする時期が重なった事もあり、アスリートの社会活用のニーズの高まりに合わせて、講演活動やメディア出演など、アスリート経験を社会へ提供する活動を積極的に行う。

「修士課程社会人1年制コース終了」2014年(平成26年)

競技引退後のキャリアを考える中、早稲田大学スポーツ科学研究科のトップスポーツビジネスコース平田研究室の門戸を叩く。
研究テーマは「わが国におけるビーチバレーボール振興策に関する研究」

2013

「競技引退後のライフワークはチャリティマラソン」2013年(平成25年)

競技を終えてもスポーツに関わりたい気持ちからマラソンへの挑戦を決意。
東京マラソンのチャリティランナーとして2013年大会から毎年出走している。

2012

現役引退、NPO活動に 2012年(平成25年)

2012年、引退を表明。同年、NPO法人「日本ビーチ文化振興協会」理事長に就任し、「はだしの文化」を提唱する。

2002

ビーチバレーに転向し、五輪出場 2002年(平成14年)

2002年、ビーチバレーに転向。日本代表の主力選手だっただけに、世間をあっと驚かせた。砂浜でジャンプすることの難しさやボールが風に流される自然環境といったインドアとの違いに戸惑いながらも着実に成長を遂げ、2008年には北京オリンピックに出場し、9位。2012年にもロンドンオリンピックに二大会連続で出場するという快挙を達成した。

1998

日本の「ライジング・サン」 1998年(平成10年)

1998年、サントリー入社。199cmの長身を生かしたブロックを得意とするセンターとして活躍し、2000〜2002年にかけてチームをVリーグ3連覇に導く。日本代表でも不動のセンターとして活躍。名字から「ライジング・サン」というニックネームで親しまれ、世界選手権をはじめとする数多くの国際大会に出場した。

1995

バレーボール界の“新星” 1995年(平成7年)

中学校から始めたバレーボールですぐに頭角を表し、名門・鎮西高校で春の高校バレーとインターハイで準優勝。法政大学に進学すると、1995年に全日本大学選手権で優勝、1997年にはユニバーシアードに出場。内定選手としてサントリーからVリーグに出場し、在学中にもかかわらず日本代表にも選出された。

1994

「大学進学時に熊本を離れ上京する」1994年(平成6年)

平成6年、法政大学経営学部経営学科に入学。全国のバレーボール強豪校から同級生8名が集い大学生活スタート。法政バレー部は伝統ある強豪校として日々鍛錬に励む。1年生時からレギュラーとして試合に出場し、2年生時にインカレ優勝。その頃から全日本バレーチームに選出される。平成10年(1998年)法政大学卒業

1991

「全国大会デビュー。春の高校バレーで代々木体育館のコートに立つ」1991年(平成3年)

鎮西高校へバレーボール推薦で進学し、全国優勝を目指しながらバレー活動に専念。サイドアタッカーからセンタープレーヤーへコンバートし、ブロック力を武器にキャプテンとしてプレーする。高校生夢の舞台である春の高校バレー大会で決勝まで進出し、代々木体育館センターコートでプレーする。春高バレーは準優勝で終える。

1988

「中学生時代に身長が190センチを超える」1988年(昭和63年)

市立楠中学校に入学後、身長を活かしたスポーツに挑戦したい気持ちが強く、
サッカーから転向しバレーボール部に入部。部活動と並行して学業にも積極的に取り組み、特に数学が得意でテスト勉強にも励む。バレーボール部では週に2,3回程度の練習ではあったが仲間に恵まれ、県大会決勝まで進出。中学校3年生時に、全国中学校バレーボール選抜大会に出場し本格的なバレーボール活動がスタート。

1982

「小学校時代はサッカー少年」1982年(昭和57年)

熊本県の小学校では部活動制が取り入れられ、教員と地域のボランティアとで子供たちにスポーツ環境の提供が行われていた。
その中でサッカーを選択し、フォワードや大きな体を活かしたゴールキーパーなどを担当。
思い返せば、熊本のスポーツ界の根幹はこの小学生部活動にあるのではと回想する。

1980

「保育園ですくすくと育つ」1980年(昭和55年)

自宅のある地域は新興住宅地で、ファミリー層が急激に増えたこともあり、保育園の中は子供たちで溢れかえっていた。

1975

1975年(昭和50年)熊本県で生まれる。

出生時の体重が4500グラムのビッグベイビー。4歳上の姉と二人兄弟。両親が共働きの世帯だったので、同居する祖母と多くの時間を過ごした。当時の様子は、お座りがままならない程体が大きく驚かれる。