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「競技引退後のライフワークはチャリティマラソン」2013年(平成25年)

競技を終えてもスポーツに関わりたい気持ちからマラソンへの挑戦を決意。
東京マラソンのチャリティランナーとして2013年大会から毎年出走している。

「大学進学時に熊本を離れ上京する」1994年(平成6年)

平成6年、法政大学経営学部経営学科に入学。全国のバレーボール強豪校から同級生8名が集い大学生活スタート。法政バレー部は伝統ある強豪校として日々鍛錬に励む。1年生時からレギュラーとして試合に出場し、2年生時にインカレ優勝。その頃から全日本バレーチームに選出される。平成10年(1998年)法政大学卒業。

「全国大会デビュー。春の高校バレーで代々木体育館のコートに立つ」1991年(平成3年)

鎮西高校へバレーボール推薦で進学し、全国優勝を目指しながらバレー活動に専念。サイドアタッカーからセンタープレーヤーへコンバートし、ブロック力を武器にキャプテンとしてプレーする。高校生夢の舞台である春の高校バレー大会で決勝まで進出し、代々木体育館センターコートでプレーする。春高バレーは準優勝で終える。

「中学生時代に身長が190センチを超える」1988年(昭和63年)

市立楠中学校に入学後、身長を活かしたスポーツに挑戦したい気持ちが強く、
サッカーから転向しバレーボール部に入部。部活動と並行して学業にも積極的に取り組み、特に数学が得意でテスト勉強にも励む。バレーボール部では週に2,3回程度の練習ではあったが仲間に恵まれ、県大会決勝まで進出。中学校3年生時に、全国中学校バレーボール選抜大会に出場し本格的なバレーボール活動がスタート。

「小学校時代はサッカー少年」1982年(昭和57年)

熊本県の小学校では部活動制が取り入れられ、教員と地域のボランティアとで子供たちにスポーツ環境の提供が行われていた。
その中でサッカーを選択し、フォワードや大きな体を活かしたゴールキーパーなどを担当。
思い返せば、熊本のスポーツ界の根幹はこの小学生部活動にあるのではと回想する。

「保育園ですくすくと育つ」1980年(昭和55年)

自宅のある地域は新興住宅地で、ファミリー層が急激に増えたこともあり、保育園の中は子供たちで溢れかえっていた。

1975年(昭和50年)熊本県で生まれる。

出生時の体重が4500グラムのビッグベイビー。4歳上の姉と二人兄弟。両親が共働きの世帯だったので、同居する祖母と多くの時間を過ごした。当時の様子は、お座りがままならない程体が大きく驚かれる。

政治家を目指す 2016年 (平成28年)

2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が、日本の社会を大きく飛躍させるチャンスだと思い立候補を決意。
子育てをしながら安心して働ける社会、健康長寿社会、スポーツ成長産業化、障害者と共に暮らせる心のバリアフリーのある社会の実現を通して世界に誇れる日本の実現を目指す。

ビーチバレーに転向し、五輪出場 2002年(平成14年)

2002年、ビーチバレーに転向。日本代表の主力選手だっただけに、世間をあっと驚かせた。砂浜でジャンプすることの難しさやボールが風に流される自然環境といったインドアとの違いに戸惑いながらも着実に成長を遂げ、2008年には北京オリンピックに出場し、9位。2012年にもロンドンオリンピックに二大会連続で出場するという快挙を達成した。

日本の「ライジング・サン」 1998年(平成10年)

1998年、サントリー入社。199cmの長身を生かしたブロックを得意とするセンターとして活躍し、2000〜2002年にかけてチームをVリーグ3連覇に導く。日本代表でも不動のセンターとして活躍。名字から「ライジング・サン」というニックネームで親しまれ、世界選手権をはじめとする数多くの国際大会に出場した。